第6章 ダークサイド・オブ・DNA
https://gyazo.com/2f7d45fa32f40e58d8b72e4497bfd4ab
https://amzn.to/2Zx0fXP
同業者による論文審査
ある発見が大発見なのか中発見なのか少発見なのか、無意味なものなのか
論文の価値を即座に判定して、次号の科学誌に掲載するか否かを決めなければならないとしたら
掲載不可として返却すれば、新人は同じ論文をライバル誌に持ち込み、後に本当に大発見であることが明らかに慣れば、先見の明があったとの"誌価"を高からしめるだろう
フェルマーの最終定理を証明したアンドリュー・ワイルズの業績は、メディアがそのように報道したことによって初めて一般の人々に大発見であることが認知された
このような事態は今や細分化されたすべての専門領域で起こりうる
そしてその問題なのは、ある研究成果の価値を判定できるのはプライド高き本人を除くと、ごく少数の同業者でしかないということ
そこで、論文発表の場となっているほとんどすべての専門誌ではピア・レビュー(peer review)という方式で掲載論文採択の決定を行っている
研究者が「業績」と言えば、それは通常、刊行された論文数ということになる
発明・発見の権利に関していえば、いくら、私も同じことを考えていた
研究業績のクレジット(先取権)は、一番先に論文発表した者にのみ与えられる
匿名のピア・レビュー法は、細分化されすぎた専門研究者の仕事を相互に、そしてできるだけ公正に判定する唯一の有効な方法ではある
しかし、同業者が同業者を判定するこの方法はそれゆえに不可避的な問題を孕むことにもなる
それは「一番最初にそれを発見したのは誰か」が常に競われる研究の現場にあって、つまり二番手には居場所も栄誉も与えられない状況下にあって、狭い専門領域内の同業者は常に競争相手でもあるという事実
防ぎきれない誘惑
あなたがピア・レビューアーに選ばれ、ある論文の審査を任されたとしよう
送られてきた論文を見てあなたは驚愕する
研究分野が同じでいつも最も意識し、かつ警戒しているF教授のグループの論文だった
それは、あなたがまさに今、密かに進めている仕事を一歩先んじてまとめあげたもので、結果も見事というほかない完成度に仕上がっていた
しかもそこにはあなたの研究チームがまだ解明できていない重要なデータも記されているではないか
このような状況下に置かれたら天使でさえも堕ちるかもしれない
あなたはF教授の論文の細部について難癖をつけ、論文採択のためには、図表の改良や追加実験の必要性があることを指摘した回答文を編集部に戻し、できるだけ時間を稼ごうとする
一方で、自分の部下たちに必要なデータと緊急命令を与え、自らの研究の感性を急がせる
これを別の専門誌に提出すれば、うまくすればF教授を出し抜くことができるかもしれない
最悪の場合でも「ほぼ同時に独立して」同じ結論に到達したと装うことができる
もちろん端的にルール違反であり、データの剽窃
ピア・レビューが同業者による同業者の審査システムである以上、まったくの中立であることや、レビュー中に知り得た情報の影響を完全に排除することは不可能
そして過去、様々な形で顕在化するか潜行するかを問わず、ピア・レビューに付随する不公正が横行してきたことも事実
これをできるだけ防止するために、ピア・レビューアーを複数任命したり、論文執筆者が「直接の競争相手のだれそれだけはピア・レビューアーに指名しないでほしい」との要望を述べられるなどの措置が取られている
もろんこれでも十分ではない
編集委員会自体が同業者の互選で構成されることが多いので、この中にもし利害関係者がいれば様々なバイアスが生じる余地がある
論文執筆者の匿名化も難しい
論文ほど研究者の個性が現れるものもない
二十世紀最大の発見にまつわる疑惑
ワトソンとクリックによる二重らせん構造の発見
DNAが細胞から細胞へ、あるいは親から子へ遺伝情報を運ぶ物質的本体であることを示したのはオズワルド・エイブリー
そして、DNAの構成要素である四種のヌクレオチドの組成を調べると、常にアデニンの含量とチミンの含量とが等しく、他方、グアニンの含量とシトシンの含量とが等しいことがわかっていた(シャルガフの法則)
しかしこの事実が示唆することの意味を誰もが気づかないままでいた
ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは、わずか千語からなるごく短い論文として、『ネイチャー』の1953年4月25日号に掲載された
そこには糖とリン酸からなる二本の鎖がらせん状に絡まり合い、その内部にAとT、GとCが規則正しく対合しているモデル図が示されていた
シャルガフの法則がなぜ成立するのかを余す所なく明らかにし、同時に、互いに相補的関係にある二本のらせんは自己複製のメカニズムをも暗示していた
皆がそのことに目を奪われた
しかしこの図の中に、DNAの二重らせん構造を解く鍵になったきわめて重要な知見がごくさりげない形で付記されていることに気づいた人はそれほど多くなかった
らせん状に絡まり合う2つの鎖のそばに小さな矢印が振ってあった
その矢印は互いに逆の方向を示していた
DNAの鎖には化学的に方向性があり、頭と尻尾がある
二重らせんを構成する2つの鎖は同じ方向を向いているのではなく、互いに逆方向を向いて絡まっているのである
ねじれながらも等間隔・等距離に抱え込むことが可能となる構造をとりうる
さらに言えば化学的方向性が互いに逆走行であるがゆえに、短いプライマーに挟まれたDNA断片は複製のたびごとに二倍、四倍と増幅できることににある
マリスの発見もここにその基礎を穿っている
彼らはある重要な手がかりを密かに「透かし見(ピア)」していたのである
ロザリンド・フランクリンのX線解析
ロザリンド・フランクリン
彼女の専門分野はX線結晶学
未知物質の結晶にX線を照射する
すると波長の短いX線は物質の分子構造に応じて散乱する
その散乱パターンを感光紙に記録する
これを特別な数学によって解析すると、散乱を引き起こした物質の分子構造についての手がかりを得ることが可能となる
ロンドンのキングズカレッジにあって彼女に任された研究テーマは、X線によるDNA結晶の解析だった
時はあたかもエイブリーによる発見がようやく広く認められるようになっていた
当時、まだ20代前半だったアメリカ人、ジェームズ・ワトソンは一攫千金を夢見て、フランクリンの出身校であるケンブリッジ大学に到着していた
ワトソンはそこでクリックに出会い意気投合した
ヌクレオチドの組成に関するシャルガフの法則が唯一のヒントだった
帰納と演繹
ロザリンド・フランクリンはしかし、このような喧騒とはまったく無縁の地点にいた
後年明らかにされた手記や私信にも、彼女がDNAに対してその生物学的重要性を認めたがゆえに研究に邁進したというような記述はどこにも見当たらない
DNAは彼女にとって材料以外の何物でもなかった
X線結晶学は、まさに地道な営みの繰り返しでしか進み得ない仕事
結晶化にセオリーはない
21世紀の現在でも同じ
散乱パターンもを解析する数学的な作業も並大抵のことではない
今日、この部分のきわめて複雑で困難な計算はコンピュータプログラムが代行してくれるようになった
フランクリンはこれをすべて手計算でこなしていた
彼女はただ「帰納的」にDNAの構造を解明することだけを目指していた
着手してから一年ほどの間に、DNAには水分含量の差によって「A型」「B型」二種類の形態が存在することを明らかにし、それを区別して結晶化する技法を編み出していた
さらにそれぞれの微小なDNA結晶に正確にX線を照射し、美しい散乱パターンの写真撮影にも成功していた
彼女はそれを未発表データとして誰にも見せず数学的解析をひとり進めていた
一方、ワトソンとクリックはといえば、彼らは典型的な演繹的アプローチによってDNA構造に迫ろうとしていた
それは一種の直感、あるいは特殊なひらめきによって、きっとこうなっているはずだ、と先に図式を考えて正解に近づこうとする思考だ
結論を急ぐあまり、ともすれば自説に不利なデータは無視する傾向にある
しかし一方で大胆な飛躍は旧弊を打破し、新しい世界を拓くこともある
ワトソンとクリックは、自分たちで実験を行い自らデータを収集しようとはしなかった
そのかわり、ボール紙や針金を組み合わせて作った分子モデルを動かしながら、ああでもないこうでもないと議論を繰り返した
DNAは生命の遺伝情報を担っている以上、必ず視野自己複製を担保する構造をとっているはずだし、シャルガフの法則を満たす規則性を持っているはずだ
しかしいくら演繹的とはいえ、カエラにも思考のジャンプ台となるべきデータや観測事実が必要だった
盗み見られたX線写真
ロザリンド・フランクリンは、自分が独立した研究者であり、DNAのX線結晶学が自分のプロジェクトだと考えていた
ところが彼女が所属する前からロンドン大学キングズカレッジでモーリス・ウィルキンズは、フランクリンを自分の部下だとみなし、自分がDNA研究プロジェクトの統括者だと考えていた
X線結晶学に疎いウィルキンズは、フランクリンの参加によって自分のプロジェクトが大いに推進されることを期待していた
曖昧さや妥協を一切許さないフランクリンは研究所内でことあるごとにウィルキンズと衝突した
ウィルキンズとフランクリンが所属していたロンドン大学キングズカレッジと、ワトソンとクリックが所属していたケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所はDNA構造解明を巡ってライバル関係にあった
しかも両者は私的なレベルでは友好関係にあった
特に、クリックとウィルキンズは年も近く、古くから親交があった
ウィルキンズはクリックとしばしば食事をしてはフランクリンの行状にちて愚痴をこぼした
ウィルキンズはフランクリンを陰で"ダークレディー"と呼んでいた
三冊の書物
ジェームズ・ワトソン『二重らせん』
フランシス・クリック『熱き探求の日々』
モーリス・ウィルキンズ『二重らせん 第三の男』
ワトソンの『二重らせん』は科学読み物としては異例の大ベストセラーになった
DNA構造解明の解明競争にまつわる研究者たちの赤裸々な実態が描き出されていた
しかし、この本はまったくフェアではなかった
著者ワトソンだけが、無邪気な天才という安全地帯にあって、他の人々はあまりにも戯画化されすぎていた
クリックでさえも不快感を表明した
この中でもっとも不当に記述されたのがロザリンド・フランクリンだった
彼女はウィルキンズの"助手"とされ、気難しくヒステリックで、それでいて自分のデータの重要性にも気が付かないような"くらい女性研究者"ロージィ"として描かれていた
ここにはもう一つ重要な記載がさりひげなく記されている
ワトソンがあるとき、ロンドン大学を訪問し、ロージィと論争してきわめて険悪なムードになったことがあり、それがきっかけでウィルキンズと"被害者同盟"を結んで、急に打ち解ける場面がある
ウィルキンズは密かにフランクリンの撮影したDNAの三次元形態を示すX線線写真の結果を複写しているというのだ
そのX線写真模様はどんなふうなのかと質問すると、モーリスは隣の部屋から、彼らが「B型」構造と呼んでいる新形態を示す写真のプリントをもってきた。その写真を見たとたん、私は唖然として胸が早鐘のように高鳴るのを覚えた。(中略)写真のなかでいちばん印象的な黒い十字の反射はらせん構造からしか生じえないものだった。
→第7章 チャンスは、準備された心に降り立つ